毀れるほど、綺麗な
057:何よりも綺麗で哀しい
理由もきっかけも判らない。教える立場として赴いた道場が引けたとき。あとは戸締りをして、と考えているところで呼び出される。そのままで。使いの言葉のそれが符丁だ。胴着に袴の格好で赴いて犯される。洋装の時ではないのは手間の問題だろう。釦を千切り飛ばしたり布地が裂けたりする前に、衿や合わせははだけて紐が解ける。もっとも気遣われるのはそれだけで、男の藤堂に対する扱いは回を重ねるごとにひどくなっていく。打擲や殴打はありふれて布地ではなく皮膚が裂け、腫れる。脚の間を伝い落ちるものに紅が混じる。どろりとした白濁と混じり合うように垂れる感触に藤堂は何度も身震いした。
夜半の帰路は静かだ。軒灯も消えている通りを歩きながら今日はまだマシだなと思った。始末も軽くで済んだ。仕打ちに慣れた体を引きずって頬を裂いた傷から垂れる紅露だけが胴着の衿を汚す。下肢の状態は思い出したくもない。犯されたそこを、さらに男の指と動きが藤堂を辱めた。わしが始末を手伝ってやるというのだぞ。善意などではない。悪意と辱めのためだけのそれに藤堂はひくりと体を震わせるだけだった。思い出してぞくりとする。足元が砂利を噛む。ずるずると進める歩がまるで体を引きずるように重たい。何とか帰りつければ。どんなに進みが遅々としていても止まるわけにはいかない。足を止めたらそこから動けなくなってしまう。
胡乱な動作と目線のまま、たどり着いた自宅の施錠を解く。その時になって初めて気づいた。軒灯が灯っている。解錠の手応えが微細だが違う。藤堂の家は旧いから誰かが使えばすぐ判るし藤堂は独り身だ。親もすでに亡い。なにより隠そうともしていない気配が。体を引き締める。茫洋とした胡乱さを押しやって戦闘の構えを取る。踏みしめる歩の速さは変わらないが触覚が鋭敏になっている。不審者ならば相応の対処がある。軍人として戦闘力に遅れは取らないつもりだ。血を見ることに対しての恐れもない。なに、が――。誰何する前に仕切り戸が開けられる。そこに立っていた人影に藤堂は目を見開いた。
「……あさひな」
軍属の格好ではない。こだわりがあると思わせるほど俯いたなりにも揃う長さの前髪や道化た丸眼鏡。眉の上から頬まで走る傷。藤堂より丈も目方もないのに、今向かい合っている朝比奈はひどく恐ろしいような気がした。
「遅かったんですね」
「……少し、呼ばれて」
ふぅん。あぁもう風呂も立ててあるし食事も作りました。どっちにします? どうして、ここにいる。藤堂がようやっとで吐き出した言葉に朝比奈はどこか癇性を帯びた笑みを浮かべた。さぁ、どうしてでしょうね。
「藤堂さんが道場に行った日の次の日は雰囲気が違うからかな。傷が増えている時もあるし。顔なんて不用心すぎますよ」
もっと警戒してください。……すまない。流れのままに謝る。必要とあれば攻勢に出ることに躊躇いはないが、元来受け身な性質だ。言われればそうかと思うしむやみに噛みつくような勢いもない。朝比奈に言いつけるように言われて頷いてしまった。
緊張が弛んだ瞬間、残滓がとろりと内股を撫でてびくんと跳ね上がった。胴着に袴の姿で帰路についていた。余裕をたっぷりと取る着衣であるから惨状は知れていないと思うが藤堂の反応を朝比奈は見逃してくれない。風呂ですね。それ以外は許さないふうに言い切られてしおれた。手荷物を奪われる。脇へ乱暴に置かれ、緑柱石の双眸が鋭く射抜く。そのまま手を引かれた。連れていかれる先は風呂場だ。突き飛ばされるようにたたらを踏み、向き直ると朝比奈は物怖じもせずそこに立っている。
「今更オレの前で裸になれないなんて言いませんよね」
顔を背けて押し黙る。布地の奥の惨状を知られたくない気持ちが働いた。傾がせると頬の裂傷から新たな血があふれた。亜麻色の胴着の襟をじわりじわりと紅が犯す。藤堂さん。
「気づいてないと、思いますか」
口元を引き結ぶ。己の弛みや落ち度を朝比奈の敏さの所為にするわけにはいかない。朝比奈……頼む、から。それ、脱がせてほしいってことですか。がっと乱暴に衿を掴まれて藤堂は反射的にそれを払い解いた。ばしん、と乾いた音がして朝比奈の手が赤みを帯びる。刹那、緑柱石が驚いたように集束して見開かれたがすぐに皮肉に笑う。
「顔も洗ってくださいね。ひどい顔してますよ」
平素の懐いてくるのが嘘のように隔たりを感じる。だがその隔たりは藤堂が作っているものだと知っている。黙したまま頷いて動けない藤堂をしばらく見つめていたが、朝比奈は踵を返した。かちゃかちゃと瀬戸物の触れる音がし始めて飯の支度をしているのだと茫洋と思った。のろのろと体を動かして布地を解き、藤堂は裸身の惨状の始末と洗浄をした。湯を浴びながら朝比奈を想ったが愛しさより申し訳なさが先立ち、それがさらに気をくじいた。落涙はしない。灰蒼は揺らいだが濡れない。堪えきれずに少し吐いた。
濡れ髪のまま風呂から上がり、用意されていた着替えをまとう。浴衣姿のまま仕切り戸を開けると食卓が用意されていた。あぁ、もう、藤堂さん。頬杖をついていた朝比奈が藤堂を見るなり不満げな声をあげる。血! 血が出てます! 冷えた滴に混じった紅いものが藤堂の頤や首筋を撫でていた。血液は体温と温度が似るから流動の動きで初めて察する。着衣が汚れるかとあてがった指先が紅く濡れた。こっち来てください。強引に引きずられて座らされる。救急箱がいつの間にか用意されていた。藤堂の家のものだが朝比奈はまるで住人であるかのように慣れた仕草で必要なものを取り出す。藤堂が口を利く隙も与えずに手当てをする。朝比奈も軍属であるから処置や対処を知っている。食事はどうします? 片付けながら片手間に訊いてくる。それでいて藤堂の変化を見逃してくれるような甘さはない。藤堂の唇は開いたが何も言わずに閉じた。
「……すまない」
何に対しての謝罪なのかはわからなかったが謝るべきだと思ったのだ。ぐっと朝比奈が唇を噛む。やめてください。オレの事が気になる、なら、もっと。
「もっと優しく抱かれてください」
吐き出すものはなかった。ぐるぅと喉が鳴ったが口の中に溢れるのは胃液や涎だけだ。藤堂はそれを飲み下した。引き結んだ口の端が震える。正座した膝の上に置いた手に力がこもる。拳を握る。爪が皮膚を裂くのが判る。謝罪するべきなのだ。そして朝比奈を遠ざけるべきなのだ。――あの、男と関係している自分から。
顔を上げられない藤堂のこめかみや頬を冷えた滴が撫でた。ドンと肩を押されてされるままに倒れた。浴衣の裾を乱して仰臥する上に朝比奈が覆いかぶさってくる。
「こういうところですよ。藤堂さん、抱かれてるんでしょう。判らないと思いますか」
応えるべき言葉が見つからない。たぶん、嫌悪されるのだと思った。手間をかけさせているうえに奔放であるなど赦されない。無理かどうかではない。藤堂がその状態に応えてしまっていることが責められるべきなのだと。朝比奈の手が衿合わせをはだけさせる。打擲の痕跡が痣や擦過傷となって残っている。じくじくと痛む傷は藤堂が応えるうちに肉に埋もれて消えていく。そうなるだろう。今までもそうだったのだ。
「判りますよ。だって藤堂さんどんどん綺麗になっていくから」
「綺麗?」
予想もしない単語に藤堂の灰蒼が朝比奈を見た。こんな、穢れた。納得しない藤堂に聞かせるように朝比奈の口が動く。楽しげだがつらそうでもあった。艶めかしいって言うのかなぁ。なんだかこう、色気が増すんですよね。色気? そんな、ものは――
「ないわけないでしょう。だから犯されるんだよ」
ずばりと言われて黙るしかない。あぁほら、藤堂さんはそんなだから。いつもそうだから。
「合意なんか、してないかもしれないけど……――でも、それをされるたびにあなたは綺麗になっていくから――」
空気が違うんです。色気とか雰囲気とかもう、まとうものが変わるんです。惑わせるんです――
「だから、それが、オレを責めるんです」
落涙しそうなほどに濡れた双眸が揺らいでいた。魅入られたように動けない藤堂の唇が吸われた。刹那、朝比奈に対して抱いた感情がとろけていく。謝罪。懺悔。理性的であろうとする足掻きすら、朝比奈の舌が砕く。
添えられた手が藤堂の頬を撫で耳裏のくぼみを押す。無防備に拓いてしまう歯列をさらにこじ開けて舌が潜り込む。噛み切るほど拒む理由も思いつかずにされるままになった。朝比奈の眼鏡の硝子が淡い光に煌めく。もぐりこんだ舌は藤堂のそれに絡みつくなり吸い上げ、口腔へ引っ張り込んだかと思うと噛みついてくる。涎があふれて痛みにしびれる。朝比奈はそれを嫌うでもなく吸い、同時に藤堂の口腔にも流し込んでくる。すり、と指先が藤堂の裸の胸を撫でた。節やタコのある手だ。天才剣士と鳴り物入りの朝比奈を叩きのめしたのは藤堂だ。それからまとわりつかれるようになった。敵対的であった態度がいつの間にか友好的なものになり、恋愛的なものになった。自分の居場所はあなたと共に在るとまで言ってくれる。きゅむ、と指先が胸の先端をつねった。じんと痺れが腰奥に走る。刀身を呑みこんだことを忘れきれていない菊座がヒクつく。口腔に舌が押し戻される。同時に入り込む朝比奈の柔肉が上顎や歯列をなぞる。ぞくりとした震えを感じる。胸から下りてきた手に脚の間を揉みこまれる。朝比奈は好き放題貪ってから舌先に銀糸を繋げたまま笑って息を継ぐように離れた。判るんです。びく、と藤堂の手が痙攣的に跳ねた。指先が攣るように体に不自然な緊張が走る。あさ、ひ、な。
「判るんです」
言うな。藤堂の喉がごくりと鳴る。言うな。いうな、いう、な――
「鏡志朗さんが犯されるたびに綺麗になっていくことが、それが判ることが――少し、哀しい」
ざ、あ、っと血の気のような何かが引いていく。反論も訂正もするだけの力がなかった。体が冷えていく。心臓が冷たくなっていく。そのくせ抜き身や菊座ばかりが求めるように熱を帯びる。
「わたしは、きたない」
「穢くなんかない。だから、抱かせて」
朝比奈の笑みが深まる。微笑むようなふぅわりとしたものからどこか癇性を帯びた。怒っているようにも泣きだす前のようにも、癇癪を起こした子供のようにも見えた。唇を食むように吸われる。角度を変えて何度も吸い付いてくる。そのたびに潜り込む舌が、歯列や上顎だけでなく舌の裏側まで舐る。手が皮膚の上を這う。胸や腹を撫で、脇腹をなぞる。ぞくりと震えると嬉しげに爪を立てる。
「好きです」
選択肢はない。
「抱かせて」
応えの言葉すらない。脚の間へ手が滑りこんでくるのを感じる。浴衣の裾が乱される。藤堂は目を閉じない。せめてもの。
《了》